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- » 2012 . 06
2012.01
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ザンジバル島のストーンタウンと呼ばれる地域は本当に心地よいところで、ちょっとここに住みたいな、とまで思う程になっており、ダラダラ(乗り合いバス)にも乗らないで徒歩で散策を続けながら、ここに住むとしたらビザとかはどうしたらいいんだろう、というようなことまで思いを巡らし始めていた。
就労ビザを取るとしたら職業は日本語教師で降りるのだろうかとか、そもそもここに日本語を学びたい人がいるのだろうかとか、この停電の多い国にはネットも普及していないようだしアニメなどの日本の現代文化も殆ど人気はないようだし、そもそも日本で全然商売できないのが外国で出来たりするかな……
ナイロビではとりとめのないことを考えながらだらだらと歩いたりはしなかったが、ここザンジバル島ではいくらでもそれが出来た。
一杯50シリングのコーヒーと100シリングのお菓子でのんびりとした時間をチャイハネで過ごしていると、次第にこの土地の嫌なところもチラホラ見えて来たものの、この世にユートピアがあるなどとは思っていないので、それは別に構わなかった。
この世にユートピアはなくとも、マシなところとキツイところはやはりあって、ここはマシなところだと思ったから、こういうことを考えていたのだ。
僕は子供を生みたくないと思ったことはあっても、生みたいと思ったことは一度もなかったのだけど、アフリカの女性とならそれもあるかもしれないという気にもなっていた。
島内のジャンビアーニというビーチに向かうダラダラの上から十字架のお墓も見つけた。
イスラム教徒は土葬らしいが、彼らのお墓がどういう形なのかは知らない。
そんなに暑かったとは記憶していないが、椰子の木みたいなのもあったし、熱帯病のマラリアもあるのだから、ザンジバルはやはり熱帯に属するのかもしれない。
椰子の木みたいなのの葉が、突然振り出したスコールのような雨に打たれていた。
ダラダラの屋根には、乗客の持ち込んだベッドのマットレスが括り付けてあったが、その上にも雨が降り注いでいるだろうことも、カーブした際に道路に落ちて、持ち主が激しい雨の黄土色の中走って拾いに行ったことも、最早、非日常的で特殊なことが起こっているという風に見えてはいなかった。
こういう営みを日常として求める心境になっていたのだ。
ジャンビアーニにある日本人バックパッカーの間で有名な宿に着いて、軽く話しながらオーナーを見ていたのだが、来る前に噂で聞いていたように、酒や草に溺れている感じではなかった。
泊まってみたらオーナーが奥さんに逃げられたショックから酒や草に逃げていて、電気も鍵もない宿の中を夜中に唸り声を上げながら徘徊していて最低だったと聞いたから来てみたのだけど、どうやら一応は立ち直った後のようだった。
オーナーの2歳くらいの子は、気に入らないと本気で殴って来た。
シュノーヶリングも出来るジャンビアーニだが、海はあまり綺麗ではなく、波も強くて、ぶっちゃけ何があるかというと、特に何もない場所だった。
何もないけど、何日もだらだらと過ごしてしまいそうなのんびりとした空気だけは漂っているところだった。
世界史の教科書にも載っているくらい古くからあるアラブのダウ船がここでは今も活躍していて、引き潮で陸に上がったダウ船の前で、黒い肌の男たちが何かを囲んで斧を振り下ろす動きをずっとしている光景からも、暴力とか恐怖というようなイメージが湧いて来はしなかった。
海水浴をするのはどうやら外国人だけで、カンガを着たままの女たちが海草などを拾っているのの他に現地の女性が海に入っていることはなく、基本的にはイスラム教徒が多い土地だろうから、僕も水着だけで歩く際はコソコソと家の壁や木の裏などを歩くよう努めた。
海岸の砂も白かったし、家の壁も、空も白く、腰を屈めて海から貝を拾い上げる黒い女の体になぜか懐かしさを覚えた。
アルーシャからダル・エス・サラームへの道中で会ったタンザニア人の男は、どうやら外国人と話している自分を同国人に見せるのが好きな人のようだった。
中国の広州に家具の工場を持っていて、そこで作った家具をタンザニアやケニアで売っているのだと言っていた。
広州は個人的にはあまり良い思い出のない場所なのだが、今回アフリカに1ヶ月いた間だけでも、広州(グァンジョウ)の名を4回も見聞きしたことには驚いてしまった。
ちなみに4回とも出てきたのは、ビジネス関係の話の中でだ。
彼は携帯の番号を交換しようと言って来たのだが、僕は持っていなかった。
固定電話をかけるのもそれはそれで難しい場合が多い国では、例えば、治安面で不安な街に夜着いて、宿に行ってはみたものの満室で、夜陰の中をまた空室があるか判らない別の宿を訪ねて移動しなきゃいけなくなるというような事態は、携帯があれば即解決する。
しかし携帯を手に入れても、シムカードとかいうのを手に入れて色々やらないといけないとか、面倒臭いことが多いみたいだったので、今回は1ヶ月だけの旅行というのもあって買わないことにした。
持っていないというと、彼は本気で驚いていたようで、「携帯なしでどうやってアフリカをサバイブするんだ?」と訊いてきたのだった。
ナイロビのキベラで会った男は、スマホではない普通の携帯で銀行口座にお金を振り込んでいたりもしていたし、単に僕が知らないだけで、現代アフリカをサバイブするのにぴったりの進化をこの地の携帯は遂げていたのかもしれない。
車を知った後に車のない世界に戻るというようなことは実現し得ないそうだ。
太陽が沈んで、潮も引いた後の海岸は、水のある別の惑星に来てしまったかのような光景で、海鳴りはその星の鳴動のように思えなくもなかった。
まだ火山活動が活発な生まれて間もない星だったら、こういう音もしてそうなイメージを僕が個人的に持っているだけなのかもしれないが、個人的には、ヒトの集合的無意識には、何か原初的なものを喚起させるイメージとして、こういう光景があるのではないかなという気がしていた。
サンダルを履いたままでは歩き進むことの難しいこのべチョべチョした砂も、また潮が満ちれば海水に洗われ、そしてまた潮が引けば空気に露出するのだろう。
ストーンタウンのチャイハネ

宿のオーナーの子とは別の大人しい子供。この歳で既に太鼓を叩いていた。

昼のジャンビアーニ。


夜のジャンビアーニ。
赤い服の子の誕生日パーティーみたいなのをしていた。
音楽はここでもレゲトンかダンスホールで、ラスタカラーに染まったアフリカ大陸のジャケットも。



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就労ビザを取るとしたら職業は日本語教師で降りるのだろうかとか、そもそもここに日本語を学びたい人がいるのだろうかとか、この停電の多い国にはネットも普及していないようだしアニメなどの日本の現代文化も殆ど人気はないようだし、そもそも日本で全然商売できないのが外国で出来たりするかな……
ナイロビではとりとめのないことを考えながらだらだらと歩いたりはしなかったが、ここザンジバル島ではいくらでもそれが出来た。
一杯50シリングのコーヒーと100シリングのお菓子でのんびりとした時間をチャイハネで過ごしていると、次第にこの土地の嫌なところもチラホラ見えて来たものの、この世にユートピアがあるなどとは思っていないので、それは別に構わなかった。
この世にユートピアはなくとも、マシなところとキツイところはやはりあって、ここはマシなところだと思ったから、こういうことを考えていたのだ。
僕は子供を生みたくないと思ったことはあっても、生みたいと思ったことは一度もなかったのだけど、アフリカの女性とならそれもあるかもしれないという気にもなっていた。
島内のジャンビアーニというビーチに向かうダラダラの上から十字架のお墓も見つけた。
イスラム教徒は土葬らしいが、彼らのお墓がどういう形なのかは知らない。
そんなに暑かったとは記憶していないが、椰子の木みたいなのもあったし、熱帯病のマラリアもあるのだから、ザンジバルはやはり熱帯に属するのかもしれない。
椰子の木みたいなのの葉が、突然振り出したスコールのような雨に打たれていた。
ダラダラの屋根には、乗客の持ち込んだベッドのマットレスが括り付けてあったが、その上にも雨が降り注いでいるだろうことも、カーブした際に道路に落ちて、持ち主が激しい雨の黄土色の中走って拾いに行ったことも、最早、非日常的で特殊なことが起こっているという風に見えてはいなかった。
こういう営みを日常として求める心境になっていたのだ。
ジャンビアーニにある日本人バックパッカーの間で有名な宿に着いて、軽く話しながらオーナーを見ていたのだが、来る前に噂で聞いていたように、酒や草に溺れている感じではなかった。
泊まってみたらオーナーが奥さんに逃げられたショックから酒や草に逃げていて、電気も鍵もない宿の中を夜中に唸り声を上げながら徘徊していて最低だったと聞いたから来てみたのだけど、どうやら一応は立ち直った後のようだった。
オーナーの2歳くらいの子は、気に入らないと本気で殴って来た。
シュノーヶリングも出来るジャンビアーニだが、海はあまり綺麗ではなく、波も強くて、ぶっちゃけ何があるかというと、特に何もない場所だった。
何もないけど、何日もだらだらと過ごしてしまいそうなのんびりとした空気だけは漂っているところだった。
世界史の教科書にも載っているくらい古くからあるアラブのダウ船がここでは今も活躍していて、引き潮で陸に上がったダウ船の前で、黒い肌の男たちが何かを囲んで斧を振り下ろす動きをずっとしている光景からも、暴力とか恐怖というようなイメージが湧いて来はしなかった。
海水浴をするのはどうやら外国人だけで、カンガを着たままの女たちが海草などを拾っているのの他に現地の女性が海に入っていることはなく、基本的にはイスラム教徒が多い土地だろうから、僕も水着だけで歩く際はコソコソと家の壁や木の裏などを歩くよう努めた。
海岸の砂も白かったし、家の壁も、空も白く、腰を屈めて海から貝を拾い上げる黒い女の体になぜか懐かしさを覚えた。
アルーシャからダル・エス・サラームへの道中で会ったタンザニア人の男は、どうやら外国人と話している自分を同国人に見せるのが好きな人のようだった。
中国の広州に家具の工場を持っていて、そこで作った家具をタンザニアやケニアで売っているのだと言っていた。
広州は個人的にはあまり良い思い出のない場所なのだが、今回アフリカに1ヶ月いた間だけでも、広州(グァンジョウ)の名を4回も見聞きしたことには驚いてしまった。
ちなみに4回とも出てきたのは、ビジネス関係の話の中でだ。
彼は携帯の番号を交換しようと言って来たのだが、僕は持っていなかった。
固定電話をかけるのもそれはそれで難しい場合が多い国では、例えば、治安面で不安な街に夜着いて、宿に行ってはみたものの満室で、夜陰の中をまた空室があるか判らない別の宿を訪ねて移動しなきゃいけなくなるというような事態は、携帯があれば即解決する。
しかし携帯を手に入れても、シムカードとかいうのを手に入れて色々やらないといけないとか、面倒臭いことが多いみたいだったので、今回は1ヶ月だけの旅行というのもあって買わないことにした。
持っていないというと、彼は本気で驚いていたようで、「携帯なしでどうやってアフリカをサバイブするんだ?」と訊いてきたのだった。
ナイロビのキベラで会った男は、スマホではない普通の携帯で銀行口座にお金を振り込んでいたりもしていたし、単に僕が知らないだけで、現代アフリカをサバイブするのにぴったりの進化をこの地の携帯は遂げていたのかもしれない。
車を知った後に車のない世界に戻るというようなことは実現し得ないそうだ。
太陽が沈んで、潮も引いた後の海岸は、水のある別の惑星に来てしまったかのような光景で、海鳴りはその星の鳴動のように思えなくもなかった。
まだ火山活動が活発な生まれて間もない星だったら、こういう音もしてそうなイメージを僕が個人的に持っているだけなのかもしれないが、個人的には、ヒトの集合的無意識には、何か原初的なものを喚起させるイメージとして、こういう光景があるのではないかなという気がしていた。
サンダルを履いたままでは歩き進むことの難しいこのべチョべチョした砂も、また潮が満ちれば海水に洗われ、そしてまた潮が引けば空気に露出するのだろう。
ストーンタウンのチャイハネ

宿のオーナーの子とは別の大人しい子供。この歳で既に太鼓を叩いていた。

昼のジャンビアーニ。


夜のジャンビアーニ。
赤い服の子の誕生日パーティーみたいなのをしていた。
音楽はここでもレゲトンかダンスホールで、ラスタカラーに染まったアフリカ大陸のジャケットも。



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